9月10日は、ただ一筋にご法を実践され、開祖さまの証明役としてゆるぎない信仰の道を歩まれた脇祖さまのご命日です。
優しく、厳しく信者の私たちを、教え導いてくださった脇祖さまに、感謝の誠をささげ、心からお供養をさせていただきました。
南舞鶴支部の文書布教責任者さんの説法では、開祖さまのご著書「我汝を軽しめず」を拝読する中で、「『相手を変えよう』『変わってほしい』と望むよりも、自分がふれあい方を変えていくと、明るい気持ちで過ごせる時間が早く訪れます」という一説に触れ、ご主人との関係で、不満を募らせていた自分の「夫を思い通りに動かしたい」という心に気づかせていただいたこと、そして、相手の立場で物事を考えるよう努力する中で、ご主人に感謝できるようになり、心を通わせるふれあいができるようになったことを発表されました。(佼成新聞に記事が掲載されています。)
☺「我汝を軽しめず」を早速、拝読され、そこで学んだこと、気づかせていただいたことをすぐ、実践に移される姿勢に、感動しました。少しでも見習わせていただいて、周りの身近な人たちに、ご縁をむすんでいきたいと思わせていただきました。
☆コロナ禍にあって「窮すれば通ず」(問題に直面して行き詰まり、困り果てると、かえって活路が開けてくる)と教えていただいた。コロナのお陰さまで、今までと違う生活がずっと続いているわけだけれども、その生活を体験する中で『剪定する』ということが大事になってきます。
『剪定する』とは、開祖さまのご法話の中に「植木も、果樹も、ある時期に枝葉をほどよく剪定することで、よい新芽を出し、よい花を咲かせ、よい実を結びます。剪定の時期は、その木にとっては、「苦」ですが、やがてその苦が新生につながるのです。」と教えていただいています。無駄なものは見直し、この時期を剪定するいい機会にしてまいりましょう。
☆脇祖さまが教えてくださっているように、「慈悲喜捨」の心で一人ひとりに寄り添い、心配行をさせていただくことが大切。
この間の台風が来た時でも、「信者さんのところの稲は大丈夫かな」「梨は、ぶどうは、大丈夫かな」と一人ひとり、一軒一軒、心を配って寄りっていくことが大事です。
☆脇祖さまは、「人間はみんな汚い欲の固まりなのですから—―この汚れたものをお題目のおタスキで身体を包んで、朝に夕にわずかの時間でも仏様の前に額
開祖さま、脇祖さまのご恩に報いるには、まだまだ、まだまだ不十分で申し訳ありませんが、どうぞ受けていただきたいという心で、日頃からお給仕やご供養をさせていただくことが大事。
「迷いは一さい禁物」なのです。私たちを護ってくださっている仏さまの大恩にくらべたら、私たちのさせていただいていることは、大したことはないのです。
迷わずに、浄い気持ちでお経を上げさせて頂く、お経の一文一句を汚れた自分の心に聞かせる、人の喜ぶようなことを一つでもやらせて頂く、常にその気持ちで行じる――迷わずにさせていただく。信じて、行じるのみです。こつこつ行じていったら、必ずご守護していただけます。
☆何を行じるかと言えば、
「あらゆる人を友とし、喜びを与えよう。苦しむ人を思いやり、手を差し伸べよう。人の幸せを念じ、ともに喜ぼう。とらわれを捨て、すべてを平等にいたわろう――『慈悲喜捨』というこの四つの無量に広がる利他心を実践していれば、おのずと人に優しくなれるということでしょう。(会長先生ご法話)」と教えていただいています。そういう人をめざして、今日の報恩会を機に、また、励ませていただきましょう。
会長先生から「吾日に吾が身を三省す(論語より)」—–日にたびたび、吾が身を省みるということが大切ですと教えていただきました。それぞれに、実践させていただいて、善き仲間が広がるように努力精進してまいりましょう。
☺朝夕のご供養の時に、「まだまだ、未熟な自分で申し訳ありません。」という気持ちでお経を上げたことがない私です。報恩会を機に、自分を省み、開祖さま、脇祖さまに倣って「慈悲喜捨」の心で、少しでも周りの人と善いご縁を結べるよう努力精進させていただきたいと思います。合掌