風薫る5月、山々の若芽がいつの間にか色濃く染まり、早苗の植えられた田んぼの水面に映っています。
教会の空には、精一杯口を開けて鯉のぼりさんが元気よく泳ぎ、コロナさんなど何でもすべて吸い込んで、濾過し、きれいに浄化してくれているかのようです。
昨日の第51回青年の日にも、鯉のぼりをあげて青年幹部さん方と祈りを深め、集まれない中で部員さん達にはがきに心を込めてつながり合った青年各部長さんの発表、青年教務員さんの心田を耕すの研修、素晴らしい学び合いが出来,教会長さんからと、創造こそ人生の喜び青年らしく、ご法を学び、伝え、菩薩行させて頂いていることを自信をもって、発信しようと背中を押して頂きました。
ました。
今月もご本部から開祖さま、会長先生のご法話のデータを送ってくださり、教会長さんから精進目標を示していただきました。
「佼成」5月号 会長先生ご法話 『悠々として、心安らかに』
*妙好人・石見の善太郎
🌸佼成会員として信仰に目覚め 心安らかに悠々として 敬愛される日々を
妙好人というのは、白蓮華にたとえられるほど清らかな人柄の、信心深い念仏者のことです。若いころは素行が悪く、村人から「毛虫の悪太郎」と呼ばれていたその人が、やがて阿弥陀さまの信仰に目ざめ、多くの人から「石見の善太郎さん」と敬愛されるようになったのです。
ある日、その善太郎を信仰仲間が訪ねてきました。本山参りの際に一泊させてくれた同朋で、善太郎は笑顔で迎えますが、その人はいきなり善太郎をどろぼう呼ばわりして、激しく罵ります。着物を盗んで持ち去ったというのです。すると善太郎は、身に覚えがないにもかかわらず「それは悪うございました」と丁重に詫びて、着物の代金を渡したうえ「何もありませんが、せめて草餅をおうちの人に」と、仏壇に供えた草餅を包んで土産にもたせました。
信仰仲間が家に帰って、みんなで草餅を食べようとしたときです。その家で働く娘が、なぜかうつむいたまま、手にとりません。「どうして食べないのか」主人がそう尋ねると、娘は「善太郎さんが盗ったと話しましたが、あの着物を盗んだのは私です」と、罪を打ち明けたのです。
さて、もしみなさんが善太郎さんと同じ立場におかれたら、この事態をどのように受けとめ、対処するでしょうか。
*楽しく仏道を歩む
🌸仏さまに護られている絶対の信 おまかせの心で心楽しく安らかに生きる
この話のように、やみくもに人を非難したり、人の話も聞かずに自己主張したりする人には、できれば会いたくありません。まして、どろぼう扱いされたりすれば、冷静に受けとめられないのがふつうです。その意味でも、善太郎さんの対応には感心するばかりですが、では、どうして何も釈明しないまま、善太郎さんは事態を受け入れることができたのでしょう。
私は「阿弥陀さまにすべてをおまかせしている」という、善太郎さんの絶対的な「信」によるものではないかと思います。「やましいことは何もない。仏さまはすべてご照覧なのだ」そうした、悠々として安らかな気持ちがあればこそ、あのように受けとめることができたのでしょう。「いう人もいわれる我ももろともに 同じ蓮の台なるらん」という道歌がありますが、仏の前ではすべての人が平等ですから、その場で身の正しさを申し立て、相手をやりこめるのはつまらないこと、と考えたのかもしれません。(中略)
いま、この地球に生まれて生きている奇跡に気がつけば、「自分さえよければいい」と自己に執着している場合ではない、生かし生かされあう縁に感謝することが大事なのという意味にも受けとれます。法華経の教えによって感謝に目ざめた私たちであれば、その教えを人に伝え、生きる喜びと感謝をともどもに味わおうと、一歩踏みだすことです。ただ、それは相手を変えようとか、説き伏せようとするものではないと思います。喜びをもって仏の教えを実践し人々に心楽しくふれあうなかで、いま命あることの有り難せに目ざめてくれる人がいれば、それでいいのです。
先の善太郎さんの話は、「草餅説法」といいます。娘さんの心を解かした妙好人のあたたかさに、悠々として、心安らかに生きる信仰者の神髄を見る思いがします。(会長先生ご法話抜粋)
境内地のクレマチス
私は、とても善太郎さんのように身に覚えのないことを受けとめ、お詫びして、お金も払って、おまけに草餅までお土産を包むなんて、とっても出来ないな…違いますよ。とか、犯人捜しをするかもしれないな…と。
会長先生は、善太郎さんはなぜ何も釈明しないままま受け入れることができたのはなぜか?というと「阿弥陀さまにすべてをおまかせしている」という絶対的な「信」によるものではないかと思います。やましいことは何もない。仏さまはすべてご照覧なのだ」と、悠々として安らかな気持ちがあればこそ...と教えて下さっています。
教会長さんより、いつも、本物の信仰者になることを教えて頂いています。この善太郎さんのような絶対的な「信」―仏さまはすべてご照覧なんだ―と受けとめ行動することなんだなと、感じました。開祖さまから、「信」とは理屈抜きに相手に任せる、相手の懐に飛び込むという心情と教えて頂き、教会長さんから、自分は、宇宙の大生命たる仏さまに生かされているのだ、護られているのだという信念に徹すること、佼成会員として、本当の信仰(信じ仰ぎ見る)に目ざめていくと、今、この地球に生まれ自分以外のすべての命に生かされ生きている奇跡に気がつき、自分さえ良ければ。。から、皆尊い命に生かされ生きている仲間なんだ、と感謝と、喜びが湧き上がってきます。
相手を変えようとしないで、感謝と喜びの心で教えを実践し、心楽しく安らかにふれ合い、ご法をお伝えしましょう。そして、この善太郎さんのように犯人捜しをしないで、自分が受けきるこころから、学ばせて頂き実践させて頂きましょう。と教えて頂きました。
善太郎さんのように、私もなりたい
そのためには、今月の開祖さまの法語録の中の、小手先の信心でなくばかになって、信仰の中に、仏さまの本願の中に、ドップリ浸かって自分を捨てきった正念、打ち込む一心を持って、閉鎖が続く中ですが、必ず変化し明ける日が来る、みんなつながり合っている、明るく励まし助け合い、光祥さまの諸宗教の祈りを共に捧げながら、あの人は、今どうしているかな。悲しい思いはしていないかな?と、家族や出会う目の前の人に、いつもよりもっと優しく温かいふれ合いをし、出会えない人には温かなメールや手紙をおくったり、学校や仕事に行けない中で家庭での心の辛さで、困っている方々にも、今こそ、開祖さま会長先生のみ教え、法華経をお伝えし実践させて頂きたいと思います。
玄関でお迎えしてくれている大輪のクレマチス
教会長さんより、今を過ごす大事な心がけを頂きました。
教会は、閉鎖が続いていますが3密をさけ、手洗いうがいを実行し、教会の見回りをしながら御給仕と祈願供養を休まず続けさせて頂いております。
総務部長さん教務部長さん支部長さんたちと話し合って、予定表はいつもと同じように作って主任さんやお役の人にも連絡していますが、なぜかというと何もないまま過ごしているのと、今日はうちの当番だと思っているのとでは心掛けがまるっきり違うわけです。
例えば、家でご供養させていただく時間もほぼ決まっているのではないかと思いますが、それをさせていただいていたら、生活のリズムが整ってくる。そういうことが何もない人はいつも朝早く会社に行っている人が、今は休んで家にいるから何かお役があるということはすごく尊いことですから、朝ご供養をさせていただくということを自分が努力していったら、リズムが整って良い一日のスタートが切れます。
何をさせていただくときも、常に自分自身はどうあるべきか自分自身を自分が作って整えていかないと、あっという間に日々過ぎていくのです。
ご宝前中心の生活
基準にするものを持っているかいないかで人生が変わっていくと開祖さまから教えて頂きました。教会には来ないけれど、予定表を見て今日は戒名当番の日だと思って朝から心がけて一日努力したらそれだけでもずいぶん惰性で流れるのではなくけじめがついてくる。道場当番の日にしても、当番修行のつもりで家で心がけて何かさせていただいたら意義あるものになります。
自粛が解除になっていつも通りになった時、何もしないで過ごした人が、当番だといって、よっこらしょっと立ち上がるのは容易ではない。日ごろから今日は道場当番の日だ。戒名当番の日だ。と思って過ごしたらそれもご宝前中心の生活になるのです。
お給仕やお花にしても仏さまは何もおっしゃらないけれども、新鮮なものをという心がけ、自分の信仰の在り方がどうなのか。お給仕の一つ一つが心を作っていく。自分の心がけが自分の人生を決めていくのです。
教会長さんのお説法より、神さま仏さまはいつもご照覧であり、自己中心でなく仏さまの尺度で見て考える御宝前中心の生活をし、何を自分の中心に据えるかという、心がけの大切さ、良き生活習慣の実行や、基本信行を実践の大切さを学ばせて頂きました。「どんなときも、仏道修行あるのみだよ。」の開祖さまのお言葉を胸に、明るく優しく温かく皆さんと共に精進させて頂きたいとおもいます。 合掌
京都丹後鉄道・車窓からの奈具海岸の双子岩