会長先生は、最高の富は信仰がある事。本当の安らぎは法が行ぜられる事。
そして最高の生き方は何かと言ったら、仏さまの智慧によって生きられる事です。とおっしゃっておられます。
苦悩の基は何かと言えば、あれも欲しいこれも欲しいと欲張って整理がつかなくなって困る事ですから、季節の変わり目、たとえば冬物から春物に変えていく時に整理をしますが、森信三先生がお師匠と仰ぐ方の書斎に通された時、机の上に本が一冊だけだったといいます。
先ず身の回りを調えて心身を調えると学びも深まるという事でありましょう。しかし、多くの人は溢れてくる物に囲まれて整理がつかないばかりか、さらに身の回りにも心に余計な荷物を増やしていくのです。それは、悩みの原因を自ら作っていることに他なりません。
「もし諸の苦悩を脱せむと欲すれば、まさに知足を観ずべし。知足も法は即ちこれ富楽安穏の処なり」
私達は欲望を持っているから成長できるのです。欲望を捨て切ることはできないが、しかし「足るを知る心」一つで、身も心もずっと軽くなるのです。
利他の行いを とありますが、「心に決めて目指すこと」を志と言います。志は十と一に分解できます。これは十ある欲望を一つに統一する心と読めますが、心にわき起こるたくさんの欲を一つに集中させ、他の幸せをという仏の願いに向かって歩んでいく事が私達の志だと思います。私達は生活させて頂くときに縁起の法則に照らしてみます。ところが、直面している出来事に対する執着や囚われが、この真理を見る目をしばしば曇らせるのです。無量義経には「愛著ある者には能捨の心を起さしめ、諸の慳貪の者には布施の心を起さしめ」とあります。愛著は財産などの身近な物への囚われのことで、慳貪は物惜しみと貪りですが、そうした煩悩から離れるには、これが大事で自分の事よりも「まず人様」と、利他の行ないに心を向けることが大切だと言う事です。
布施は持てるものを他のために施すことですから、たとえはトイレのフタ一つでも「あとから来た人が気持ちよく使えるように」ときちんと閉めることがいつもごく当たり前に出来るかどうか。利他の行を行っていたら自然に無理しなくても、貪欲、愛著が消えていくのだと言う事、それが菩薩行なのです。日々こうして利他の心になり、一つ一つの行いに思いを込める時、おのずと生活は足るを知る方向に変わります。
今月は是非利他の行いをして行きましょう。それは何かと言ったら、身の廻りの整理をする事によって心を調えることです。心を調えた自分をつくっていくには、まず身の回りを調え整頓する。必要な物、必要でない物をちゃんと見極めて調えていくという行いをする事が足るを知る、つまり、苦悩の基である貪欲を無くしていくことにつながります。そして利他の行いを一生懸命させて頂いていると段々人様と調和が出来る心が出来るのです。